ending_will’s blog

脳MRI in 便所

精神病者監護法

『精神障がい者の自立支援にかかわって』(著者 安河内節子)という本を少し読んだ。

 

まだ少ししか読んでいないのだが、面白いなと思うことがあったのでここに落書きする。

まるで日本史の教科書を読んでいるようだったが

 

明治 17年 相馬事件 というのがあった。

 

今でいう統合失調症(当時は別の名称)と推定される者が監禁される。

それを陰謀と捉えた者が監禁した者らと是非をめぐりいざこざを起こすという事件(自己解釈)

 

当時に精神病という概念があることに驚いたが。

 

日本は長いこと鎖国していたので西洋医学も入ってきていないため、そういうことに疎い。

今でさえ疎いが

 

 

明治33年(西暦1900年)には 精神病者監護法 というものができる。 

 

「看護」ではなく、「監護」である。

 

そう、合法的に監禁することができるというものである。

(1950年、呉秀三の活躍により精神病者監護法は廃止となるわけですが)

 

 そんなふざけた法が日本で法定されてしまった頃、欧米先進国では基本的人権を法定化している。

 

 

 

そこんところを読んでいてあの胸糞事件を思い出した。

 

寝屋川市監禁致死事件

 

国内外で色んな事件があるけど、寝屋川市監禁致死事件 これは個人的にショックが大きいものであった。

 

2017年12月 日本の大阪府寝屋川市で発覚された事件である。

 

2017年ですよ。

 

1950年、精神病者監護法が廃止されて67年経っているんですよ。

 

 

 

相馬事件も寝屋川市監禁致死事件も共通して加害者は親である。

 

きっと表面化していないだけで似たような件は未だにあるんだろうなぁ。可哀想に。

 

昨年も親が引きこもりの息子を殺害して「よくやった!」などと賞賛されていたくらいだ。

 

異常なのはそちら側ではないか?と思うが、まさに是非が都合の問題である。

 

時代、法が変わっても日本人の意識はナチス党以下である。

明治からちっとも進化していない。長い鎖国のせいなのだろうか。

 

 

まだ浅学なので精神病に関する法や呉秀三について学んでいきたい、と思うけど別に俺学者じゃないしなぁ。

ああ、こういうことか。こうやって知らなくてもいいやって考えることをやめて無知であることを恥じずに無自覚に他者を傷つけていくのか。

 

自分は医学も法律も少しは学んでいるし…などと自惚れて無知であることにすら無知であることも恥だ。見ているか?未来の俺

視野と知識

ユニバーサルデザインの服とやらで袖にファスナーをつけて腕を通しやすくする、みたいなのがあった。

 

老化が進むと肩があがらなくなる。

まぁ老化じゃなくてもそういう症状になることなんた多々ありますけど。

 

そうなるとシャツやジャケットなんかが着づらいとのこと。

わかる。

 

で、袖ファスナーとな。

 

だったら袖だけじゃなくて袖→脇→裾までファスナーをつなげたらいい。

 

わざわざホールの中に腕を通させる必要はない。

 

前身頃と袖を分けたっていい。アームカバーを応用したらいい。肩や脇が露出することになるが熱がこもらなくていい。まぁ、それはインナーとしてアウターは別にケープとかを羽織ったらいい。

ジャケットに拘るならファスナーじゃなくても戦隊モノのロボットみたいにつながるようにすればいい。

 

そもそもジャップにはシャツはジャケットなんかは似合わないのだ。

 

 

そういえば服をつくりたいと思わなくなったな。

なにもかもどうでもいい。

 

“どうしても”やりたいことなんてない。

『生きてるだけで、愛』

『生きてるだけで、愛。』(監督 関根光才)のレビュー

 

ネタバレ注意

 

 

 

 

 

 

舞台を映像にしたような作品だった。

 

観終わった後調べたら原作の著者が本谷有希子で納得。

原作も昔手に取って読んだことがある。タイトルと表紙に惹かれて。

最後どころか半分すら読まなかったけど。きっと当時読んでもなんかよく分からねーって思っただろうけど。

 

ああ、映像のレビュー、

 

観ていて疲れるものだったが、わりと良かった。

本当に疲れた。

 

自分が近い経験をしていればしているほど疲れる作品な気がする。

そして気持ちを代弁してくれたり救われたりすることもない。いや、少しは代弁してくれるんだけどもやっぱり救われないよ。作中でも、外でも。

 

相互理解は幻想だ。

 

例えオキシトシンプアで同じ病気で、更に同じ特性で自分と似た何かを持っていたとしても他人は他人。

自分とは違う。

自分自身でも自分のことが分からない、なんてことがあるくらいだ。他人には尚更。まぁ、他人だからこそ分かることもあるけど、そんなのごく一部分である。

 

自分と離れたい、と思うことがある。

 

主人公は解離性人格障害ではないけど、ないからこそ辛いのだろう。もし乖離したら彼女に関わる者たちは更に疲弊することとなるだろうけど。

 

女なんて男よりも自分を捨てるというか離れるというか脱皮しやすいだろうと思うのだが。

 

脱皮して裸になった後にその苦しみを零す。

 

それにしても寒そうだったな。あのシーンが不要だというレビューもあったが、私はそうは思わない。下着姿でもよかったのでは?と思ったけど。なんなら髪も切ってよと思った。

 撮影日は寒波の時だったそうだが、別日に撮れよと思った。そのワンカットだけでも。

 

 

でも全体的に良い話だった。良い話じゃないから良い話だった。

あのバイト先の連中が良い人たちじゃなくてただの無知な犠牲者で逆に安心した。

サクセスストーリーなんて観たくない。

 

ウォシュレットでやり返すのは上手いつーか面白かった。

 

 

 

疑問点は寧子がメイクをしていたことだ。

彼女ほどの病人がメイクなんかする気力あるかね。時間の余裕つーか管理もできないはずだし。

 

 

 

主要キャストについては特に問題なし。

他の人のレビューには趣里について疑問に思っていたようだが。俺は別に。むしろ菅田将暉の方が引っかかるくらいだった。

あと仲里依紗の糖質気質のストーカー役もよかった。仲里依紗趣里が逆でも成立したと思う。逆も見てみたい。

しかしあの役は話を進めるためだけに登場させられた感があった。本谷有希子はこの本を書きたくて書いたのか?小銭稼ぎのための作品か?

 

田中哲司の役は良い人かと思ったら彼もただの人だった。立ち直りのキーマンかと思ったのに。

あと西田尚美はリアルでもあんな感じのボケのように見えた。作中で1番嫌な役だった。そう思わせる演技ができるのはすごいことですね?

 

松重さんは、なんか違うなと思った。

あの役は自民党にいそうな傲慢な感じの人がいいと思う。

松重さんと田中哲司は無駄遣いな気がした。もっと地味で嫌そうなやつがいい。新橋にいそうなおっさんみたいな。

 

そして石橋静河。お前なんなんだ?まじで。

この人がいると作品のレベルが少し上がる気がする。いるだけで。なんなんだ?

もし俺が映画つくるってなったら絶対起用したい。

 

 

 

『リリィシュシュのすべて』よりエモくて映像(画)も良かった。

 

1番良かったのはキャストでも監督でもなく音楽だった。

邪魔にならなく、引き立ててくれる。

 

 

1 音楽

2 監督

3 趣里

健康で文化的な最低限度の生活

生活保護障害年金を勘違いしている者が多い気がする。

かつての私もそうだった。

 

病気及び障害がある人が対象、と。

 

 

生活保護は健康な人にも受給する権利がある。

 

生活保護法 第二条の条文は以下の通りである。

 

すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護(以下「保護」という。)を、無差別平等に受けることができる。
(最低生活)

 

無差別平等に、ってとこがポイントである。

つまり老若男女、健常者も障害者も、労働者も無職も、だ。

 

 

そして最低の生活というのは、小銭を数えるようなギリギリの生活ではなく、被服費とか人付き合いとかも含めての生活だそう。

 

 

そんな憲法社会保障の勉強を小中学校に取り入れたらいいのに。

俺が無学なだけ?

 

いや、大多数が無知なはずだ。だから偏見、差別が生じるのではないか。

うるせバカヤローくそが

口悪いね って昔からよく言われる

品よく知的に話すこともできるけど疲れる。マナーとかうぜえよ

 

綺麗な言葉つかってても中身が汚くて悪い人たちよりましだとおもうけどね

 

本当に悪い人たち程そうだからさ

 

NHKの悪口?

他者を犠牲にしないと生き続けることは難しいのだろうか

先ず前提に 生きることは殺すことである。

これは確かだ。

 

サル目ヒト科のヒトは殺生をしないと勘違いしている平和ボケしたバカどもが多いがしっかりと動植物の命を奪って生きている。

ヴィーガンでさえも。

 

 

そしてビジネスや学業なんかも他者を蹴落とし、誰かの屍(結果として)の上に成り立っている。

 

公的なものでも税金を搾取しているのだから似たようなものだ。その恩恵を受けることができない者にとっては。

例えガキや障害者や高齢者であっても。

 

 

そんなことより、ふと疑問に思ったが

ヒトは他者を犠牲にしないと生き続けることができないのだろうか?

先述したことばかりではない、遺伝子的なことでもだ。

 

男は子孫をのこすため、女は子を産み育てる為

もちろん子がいなくたって問題はない

 

が、生き続ける意味に欠けるのではないかと思う。善悪はない。

 

私はナタリストではない。

どちらかというとむしろ反出生主義である。それは自身に対しても他者に対しても、だ。

 

しかし虚無である。

 

なぜ生きるのか?

 

 

性欲のために異性と性交し、ナワバリを拡大、向上させていこうとするのはヒトも一緒だ。

 

所詮ヒトも動物であり、遺伝子の乗り物にすぎないだろう。

 

アセクシャルノンセクシャルの者たちはどうなのだろう。

 

性的指向やソジ的なことを差別するつもりはないし、WHOの通りそれらが病気だとも思わない。

 

が、生き続ける原動力は何か気になる。

 

脳や身体が健康ならスポーツや文化的な芸事が原動力であり娯楽となるだろうか。

 

 

では、そのようなものすら楽しむこともできず、オキシトシン・プアで、反出生主義の者はどうしたらいい?

 

 

誰からも愛されず、誰のことも愛せず、愛することすら許されない人生