乞
私の好きな詩に
吃る というのは口が言葉を乞う みたいなのがある。
私は吃音ではないと思うけど、やや構音障害がある。
音声をもちいたコミュニケーションに障りがあると仕事及び生活そのものの可能性が狭まる。
意外にもできることが減るのだ。
視覚ほどではないが、聴力や構音の障害も大変なものである。そう思うと身体障害者(区分的には身体のはず)も大変である。
なんにせよ障害者というのは生きづらい。
本格的に耳や口が効けなくなっても現在の私はこれ以上困りはしないだろうし、今後も困ることはないだろう。
もう落ちるとこまで落ちているのだから。
むしろちゃんと効けなくなってしまった方が有難いとさえ思う。
何も聞こえなくていい。何も話せなくていい。
しかし視力を失ったら困る。
死んだ方がマシだと思う。
いや、今でさえ死んだ方がマシなのですが。
視力を頼りに生活をしている。
衣食住とか根本的なことはもちろんだが、まぁその娯楽だとかも含めて。
とはいえ聴力もそれを1部担っている訳です。先程何も聞こえなくていいとは云ったものの、少し困る。
昔接してくれた人が土日なんかに“エサ”を録音してくれた。
たかがヒトの声だが、それに救われていた。
人工呼吸器だとか酸素だとか大袈裟な言い方もしたものだが、あながち間違っていない。
ぬか喜び。
死を常々思う。思わさられる。
音楽や声なんて所詮は振動に過ぎないのだが、そんなものにでも救われる時はある。
聾になっても瞎にはなりたくないと思うけど、無音なのは瞎並に真っ暗なものかもしれない。
なんて女脳みたいなことをふと思う。