他者を犠牲にしないと生き続けることは難しいのだろうか
先ず前提に 生きることは殺すことである。
これは確かだ。
サル目ヒト科のヒトは殺生をしないと勘違いしている平和ボケしたバカどもが多いがしっかりと動植物の命を奪って生きている。
ヴィーガンでさえも。
そしてビジネスや学業なんかも他者を蹴落とし、誰かの屍(結果として)の上に成り立っている。
公的なものでも税金を搾取しているのだから似たようなものだ。その恩恵を受けることができない者にとっては。
例えガキや障害者や高齢者であっても。
そんなことより、ふと疑問に思ったが
ヒトは他者を犠牲にしないと生き続けることができないのだろうか?
先述したことばかりではない、遺伝子的なことでもだ。
男は子孫をのこすため、女は子を産み育てる為
もちろん子がいなくたって問題はない
が、生き続ける意味に欠けるのではないかと思う。善悪はない。
私はナタリストではない。
どちらかというとむしろ反出生主義である。それは自身に対しても他者に対しても、だ。
しかし虚無である。
なぜ生きるのか?
性欲のために異性と性交し、ナワバリを拡大、向上させていこうとするのはヒトも一緒だ。
所詮ヒトも動物であり、遺伝子の乗り物にすぎないだろう。
性的指向やソジ的なことを差別するつもりはないし、WHOの通りそれらが病気だとも思わない。
が、生き続ける原動力は何か気になる。
脳や身体が健康ならスポーツや文化的な芸事が原動力であり娯楽となるだろうか。
では、そのようなものすら楽しむこともできず、オキシトシン・プアで、反出生主義の者はどうしたらいい?
誰からも愛されず、誰のことも愛せず、愛することすら許されない人生
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フルーツタルトでも食べようかなんて思ったり
バカバカしいね
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ある血管がやられて運動機能にも障害が出て、脳ではなく身体的にも動けなくなり、とうとうか、と思っていた
今は症状が軽減しいくらかマシになった
ずっと羨ましく思っていた身体障害者のような気持ちになり、生活していたが、思っていることはそう変わらない。
やはり
脳>身体 である
それにしても脳(精神)と身体が別というか、身体性重視の唯心論的な考えが日本という小さな島国では未だに支持されているのは何故だろう。
支持もなにも、それしか知らないのだろうけど。
1649年にデカルト先生が論じたのに、2019年のジャップはそれ以前の思考。
フランスと日本の時差は8時間ではなく、370年もあるのではないか。なんてね。
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Johann Reichhart
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ある新聞の記事に「引きこもりの娘のためにマラソンにチャレンジする」というのがあった。
そいつもそれが娘のためになると思っているし、それを美談っぽく書いている記者にも辟易する。意図的にそういう風に書いて皮肉っているのかもしれないが。
スポーツや音楽や文学やら芸で人は救われない。
それはやっている方の自己満足でしかない。
頭の弱いファッションメンヘラだったらそういうので感動できて救われるのかもしれない。その程度のかすり傷しか負ってないのだから。また、治癒力も低くない。
24時間テレビやオリンピックやスポーツ観戦とかで泣けるやつが羨ましくもあるが、恐ろしくもある。
勇気をもらいました、感動しました、
きっしょ。
その偽善的な言動により余計に傷つくことがあるって分からないのだろうか?
他人のためとかいって自分が気持ちよくなりたいだけでしょ。
どいつもこいつも薄ら寒い。